火縄銃と長篠

長篠の戦い、その舞台

長篠の戦いは、日本の戦争史を一変させた【火縄銃】を用いた戦いとして知られています。その舞台となったのがこの湯谷です。 長篠城跡や当時使用された馬防柵が再現された設楽原の決戦場から当時の様子をうかがい知ることができます。 また、5月初旬に行われる「長篠合戦のぼりまつり」で鎧、冑に身を固めた砲術隊による火縄銃の実演を見ることができます。
さらに当館では長篠の戦の戦国絵巻とともに展示してある20丁の火縄銃からその歴史を伺うことができます。

火縄銃とは

名の通り、火縄の火が火薬を爆発させて発砲する仕組みの銃です。
誤射を防ぐために、火蓋と呼ばれるスライドする金属製のカバーがあります。発射するときにこの火蓋を外して=火蓋を切って発砲することから、開戦時などに使われる「火蓋を切る」はここに由来しています。

火縄銃とは

火縄銃の歴史

1543年(天文12年)に種子島に伝来したと言われている火縄銃。(近年ではそれ以前に持ち込まれていた説もあります)種子島に伝来したことから、種子島銃や種子島と呼ばれていました。
当時、刀や槍の他に飛び道具として弓矢や石つぶてが主要な武器だった中、火縄銃の登場により日本の戦争史は一変しました。
火縄銃と聞くと、そこまで威力はないイメージですが、使用条件によっては現在の散弾銃、拳銃よりも威力が高いそうです。 まともに命中すれば鎧を着ていても十分に人を殺せる程の威力がありました。鎧を着た人形を用いた実験では、表の鉄板を撃ち抜いた銃弾が砕け、 その複数の破片が背中側の鉄板も撃ち抜いたという記録があります。それまでの飛び道具に比べ、圧倒的な殺傷能力を持っていたことが伺えます。

近江の国友、日野、和泉の堺などが鉄砲の生産地として高い技術力を持ち、多くの鉄砲鍛冶が軒を連ね栄えました。戦国末期には、日本は世界有数の銃所有国でした。
また文禄・慶長の役(1592年から1598年)で日本軍は、火縄銃で明軍を手こずらせました。明軍は日本軍の火縄銃を『飛ぶ鳥を落とすくらい命中率が高い』と“鳥銃”と呼んで恐れたそうです。

火縄銃の歴史
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